
発行:いいね長崎通信社
担当:長崎県公教庁
長崎県忠霊塔本殿(提供:公益研代表理事/同長崎県忠霊塔参事局 監主 神氏)
建立から91年が経つ長崎県忠霊塔。厳かに佇む重要な「祈りの場」が私たちの大村市にあるのだ。1世紀を迎えようとするこの施設は、今、変革の時期にはいっている。そんな長崎県忠霊塔を我々、玖島通信は主要題材のひとつとして追っていく。長崎県大村市三城町の三城城跡本丸地に立つ長崎県忠霊塔は、1934年(昭和9年)9月に建立され、今年で建立から 91年、そして戦後から 80年 を迎える、県民にとって重要な戦没者追悼の場である。戊辰戦争以降、本県籍の戦没者およそ 60,700柱 を祀るこの塔は、ただの記念碑ではなく、歴史と記憶を受け継ぐ象徴としての役割を持っている。今回の記事では、その歴史、機能、現在の意義について改めて振り返ってみたい。
歴史と建立の背景
建立年:1934年(昭和9年)9月。県民からの浄財(寄付)と勤労奉仕をもって建立。
場所:大村市三城町、三城城跡の本丸地。三城城は大村純忠の築城とされる歴史的遺構である。
目的:戊辰戦争以降、長崎県籍の戦没者を慰霊すること。出征前の出発式など、戦時中には公的な場としても機能。
構造と施設
長崎県忠霊塔の敷地と付属する施設には以下のようなものがある。
忠霊塔本体:塔そのものが慰霊の象徴。
戦争事変戦没者合同碑(納骨堂):追悼の場を補完する施設。
旧日本陸軍の個人墓:将校・下士・兵卒の墓碑があり、歩兵第46連隊(かつて大村に駐屯)関係のものも含まれている。
敷地面積:約1,010平方メートル。整備された空間で、訪れる人の祈りと思いを受け止める場として落ち着いた佇まいである。
戦後80年を迎えて
「戦後80年」という節目は、戦争の記憶を持つ世代が少しずつ減っていくなかで、記憶の継承と慰霊のあり方を再考するタイミングでもある。忠霊塔にとっても、建立から91年という長い年月が経ち、周囲の環境・社会の価値観も変化してきた。
戦没者を祀る慰霊碑・忠霊塔という形は、戦前・戦中の国民統合的な国家の機能とも強く結びついていた。戦後日本では、戦争と平和、国家と個人との関係、死者をどう追悼するかといった問いが多様になってきている。古くなった施設の維持、風化による損傷、周囲の都市化や訪問者の減少などが懸念される。特に弾薬庫や墓碑など、歴史的価値を持つ建造物・碑石群の保全が重要である。学校教育や地域のイベント、平和について考えるワークショップなどを通して、忠霊塔が単なる「過去の慰霊の場」ではなく、「未来へのメッセージを込める場」として機能できるかどうかが問われている。
長崎県忠霊塔の意義
県内で最も主要な戦没者追悼の施設の一つとして、県民の記憶と心の拠り所である。日本が経験した複数の戦争・紛争、そして戦没者・遺族が負った苦しみ、国家と個人の関係、戦争の意味を考える素材として、現存する建造物・墓碑としての価値が高い。戦後80年という時間の重みは、単に過去を振り返るだけでなく、これからの平和とは何か、戦争をどう学び継いでいくかについて考える契機となる。
今後への展望
忠霊塔がこれからも県民にとって大切な場であり続けるために、以下のような取り組みが考えられる
1. 保全・修復の計画的実施
石碑のクリーニング、風雨による劣化の補修、敷地の整備など。
2. 記憶を伝える仕組みの強化
ガイドブックやQRコード等による碑文・歴史解説の整備。定期的な公開・説明会など。
3. 教育との連携
小中高校での平和学習のフィールドワークとして忠霊塔を訪れる機会を設ける。戦争の歴史・犠牲・教訓を具体的に感じられる場として。
4. 地域コミュニティとの協働
地元自治会、遺族会、NPO、西洋とつなぐ平和の会などとの協力によるイベント(慰霊祭、平和の夕べなど)の開催。
5. 平和の発信拠点としての役割
戦争の悲惨さを伝え、平和の尊さを訴えるメッセージを発信する施設として、訪問者への案内標識・展示の充実。観光・文化資源としてのポテンシャルも持つ。
建立から91年、戦後80年という節目を迎えた長崎県忠霊塔は、過去を祀るだけでなく、今を生きる私たちが戦争の意味を問い、平和の意義を考え、次世代へと記憶を繋ぐ場である。歴史の階段を登るとき、忠霊塔はその階段の一段一段を支える礎として在り続けるだろう。
情報提供
神 葵(じん あおい)氏(公益研 代表理事(同長崎県忠霊塔参事局 監主)/長崎県防災推進員/公益活動家 /長崎連盟 総裁)現在、長崎県忠霊塔の「護り人」として、公益研を主宰し、関係団体と連携し、同忠霊塔の維持管理を行い、「県民の守護神」を護っている。https://www.instagram.com/aoi__jin?igsh=aW5ncmJucmxiYWM0
