長崎県忠霊塔(長崎県大村市三城町)は、県内出身の戦没者を追悼し、その御霊を慰めるために建立された県の中核的慰霊施設であり、実に67000余にのぼる御柱を合祀。納骨もなされており、戦争で命を落とした人々を悼み、平和への思いを次世代へとつなぐ場として、現在も県、長崎県戦没者慰霊奉賛会、長崎県忠霊塔崇敬会、奉仕人や県民などの公民を問わず大切にされている。 長崎県忠霊塔で執行される出陣式の様子 この忠霊塔では、かつて、長崎県籍の兵隊による出陣式(出兵式)が行われていた。 その郷土に伝わる記憶、伝承を、本記事に記録する。 出陣式とは、戦地へ向かう兵士が出発する前に行われた儀式であり、武運長久を祈願するとともに、地域や国家として兵士を送り出す意味を持っていた。戦前から戦時中にかけて、日本各地の忠霊塔、護国神社、神社、寺院や招魂社では、こうした儀式が公式、民間の主催を問わず広く行われ、長崎県忠霊塔もその一つであったと伝えられており、同忠霊塔で執行される行事は行政や軍主催の公式的なものであったようだ。 当時の忠霊塔は、戦没者を祀る場であると同時に、戦争という国家的事業と地域社会が連携する象徴的な空間でもあった。出陣式は、個人の意思によるものというよりも、社会全体が戦時体制の中に組み込まれていた時代背景のもとで実施されていた行事といえる。 地域の高齢者の証言や語り継がれてきた記憶からは、兵士本人やその家族、地域の人々が複雑な思いを抱えながら、その場に立ち会っていた様子もうかがえる。「群雄果敢な者」「不安を抱える者」など、出陣式には、行政や軍主催で数千人から時には数万人規模の人々が集まったと伝えられており、忠霊塔周辺のみならず、長崎県の地域を挙げた大きな行事の場となっていた。 会場には出征兵士やその家族だけでなく、地域の有力者や名士、関係団体の代表者らも姿を見せ、地域社会全体が兵士を送り出す構図が形づくられていた。その一方で、見送る人々の表情やしぐさからは、勇ましさや覚悟とともに、不安や悲しみ、別れの重みが静かに共有されていたという。 戦後、日本社会は大きな転換を迎え、長崎県忠霊塔の役割も変化した。現在では、出陣や出兵を送り出す場ではなく、戦争で命を落とした人々を悼み、戦争の記憶を伝え、平和の尊さについて考えるための場所として位置づけられている。 郷土に伝わる長崎県忠霊塔と出陣式の記憶は、戦争の時代に社会がどのように成り立っていたのかを知る手がかりであると同時に、忠霊塔の役割が変わった現在の姿を通して、私たち自身の価値観を静かに問いかけている。 発行:長崎通信社 日付:令和七年十二月三十日