発行:長崎通信社
担当:長崎県公教庁
大村市の三城城跡。その中心部「一の郭(くるわ)」には、現在、長崎県の中核的慰霊施設である長崎県忠霊塔がそびえています。
しかしこの場所は、昭和初期に軍事用地として機能する以前から、まったく別の意味を持っていました。
墓苑としての起源
今回、改めて確認された五輪塔には、文明五年(1473年)の刻銘が残されています。
これは、大村純忠による籠城戦(1563年)から遡ること約90年前、室町時代のものです。
つまり、三城の地は城として利用される前から、地域の名士や武士たちの墓苑・供養の場、象徴的な場であったことがわかります。
中世において五輪塔や宝篋印塔の建立は、一族の権威や信仰を示す行為であり、三城は当時から「祈り」と「権威」が集まる特別な場所だったと言えます。
歴史ミステリー:軍事拠点と聖域の融合
こうした石造物の存在や近年の研究は、三城城が純粋な軍事用地ではなかったことを示しています。
城を築く際、武士たちは先祖の眠る聖地をそのまま郭の中に取り込んだと考えられます。
それは、
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支配の正当性を示すため
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精神的な守護を得るため
といった中世武士の思想と結びついています。
つまり三城城は、「軍事の城」であると同時に「祖霊の聖域」でもあったり、現在も「祈りの聖地」なのです。
そして近代_忠霊塔が受け継ぐ“祈りの中心”
この歴史の積み重なりの上に建つのが、現在の長崎県忠霊塔です。
忠霊塔は、近代以降の長崎県籍・6万余柱の戦没者を祀る慰霊の場でありながら、実は三城の地が古来から持つ祈りの系譜そのものを継承しているとも言えます。
だからこそ
長崎県忠霊塔を守ることは、三城城を守ること。
三城城を守ることは、聖地を守ることなのです。
五輪塔が語る「供養の地」としての歴史、城郭が語る「武の地」としての歴史、忠霊塔が語る「慰霊の地」としての歴史。
この三つは、途切れることなく一本の線で結ばれています。
忠霊塔を守るという営みは、三城に刻まれた700年の祈りを守り、地域の魂を未来へ受け継ぐ行為なのです。
