カテゴリ:史跡



教育・文化 · 2月 27日, 2026年
島原城跡は、有明海に面し、雲仙岳東方の扇状地上に広がる近世城郭の跡である。元和4年(1618年)に松倉重政により築かれ、東西約350メートル、南北約1,200メートルの長方形状の外郭線内には、方形の本丸、二ノ丸、三ノ丸御殿が直線上に配され、その外側には家臣団の屋敷群と31棟の櫓が規則正しく設けられた堅牢な城郭構造を有している。城郭全体は戦略的な防御と居住空間の効率的な配置を両立させた設計で、江戸初期の城郭建築の特色をよく伝えている。 寛永14年(1637年)の島原・天草一揆では、一揆勢による包囲を撃退するなど、防御機能の高さが実証されている。その後、松倉氏は改易され、譜代大名の高力氏、宇都宮藩主の戸田氏を経て、深溝松平家の居城となり、明治維新まで島原藩の政庁として機能していた。こうした歴史の移り変わりは、城郭と藩政の関わりを理解するうえで重要な遺構として評価されている。 本丸の石垣には、径最大3メートルの鏡石を用いた織豊系城郭の様式と、算木積みを意識した高さ17メートルの高石垣が見られ、近世城郭への過渡期の建築技術の特徴が確認できる。本丸と二ノ丸を囲む堀の内側には、防御を意識した枡形空間が設けられ、外曲輪には当時の屋敷割が今も残る。また、小早川氏庭園周辺では、敷地内の庭園や水利設備を通じて城内の生活や水管理の状況も知ることができる。 江戸幕府が新規築城を制限していた時代に築かれた数少ない城郭であり、有明海を介して雄藩と接する戦略的な位置にあったことから、幕府からも重要視された。島原半島および周辺地域の江戸時代初期の歴史や藩政との関わりを伝える貴重な遺跡として、現在も多くの研究者や観光客から注目されている。 注1)織豊系城郭 織田信長・豊臣秀吉によって確立・普及した城郭のこと。出入り口の構造や天守、石垣、瓦を用いた造りなどに共通の特徴がある。 注2)算木積み 石垣の隅部の積み方で、直方体の石材を長辺と短辺が互い違いになるよう積み上げる技法。堅牢性を高める目的で用いられた。 発行元:長崎通信社
教育・文化 · 2月 09日, 2026年
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、アメリカ軍のB29爆撃機から投下された原子爆弾は、長崎市松山町171番地の上空約500メートルで炸裂した。原爆が炸裂した直下の地点が、現在「爆心地」と呼ばれている場所である。...

教育・文化 · 2月 06日, 2026年
長崎県忠霊塔の敷地内には、靖国神社から献木されたイチョウの木が存在することが、長崎県忠霊塔敬事会の調査で改めて確認された(令和8年2月6日)。この木は昭和55年(1980年)3月吉日に献木されたもので、戦没者慰霊と平和への思いを象徴する存在として、長年にわたり忠霊塔で静かに佇んでいる。献木当時の記録によれば、靖国神社と忠霊塔との間で戦没者追悼の想いを共有し、地域社会に平和の象徴を残す意図があったとされる。 献木イチョウの前には石標が設置されており、表面には「献木イチョウ」の文字、裏面には「靖国神社 昭和五十五年三月吉日」と刻まれている。この石標は、献木の由来と年月を明確に示す記録として、木の歴史的価値を裏付ける重要な存在だ。参拝者はこの石標を通して、献木された木が単なる植物ではなく、平和と慰霊の象徴であることを感じ取ることができる。 忠霊塔は長崎県内の戦没者を弔う中核的施設であり、六万七百余りの長崎県籍戦没者が合祀されている。全国的にも重要な慰霊施設として位置付けられ、地元住民や参拝者にとっては平和を考える場となっている。今回確認された献木イチョウは、靖国神社との歴史的つながりを物語る重要な資料であり、戦後の慰霊活動や平和教育の記録としても価値が高い。 イチョウは長寿や不変の象徴として知られ、その強靭な生命力は戦没者への敬意と平和への祈りを表すにふさわしい。単なる植物以上の意味を持つ献木として、地域の歴史や文化を伝える役割も果たしている。今後は、木の正確な位置や成長の様子、献木札や石標の文面などを詳細に記録し、平和教育や地域の文化財資料として活用する計画が進められている。 こうした献木と石標の存在を広く知ってもらうことで、戦没者への思いを再認識するとともに、地域社会全体で平和の価値を次世代に伝える契機となることが期待されている。 発行元:長崎通信社 提供元:長崎県忠霊塔敬事会
教育・文化 · 12月 05日, 2025年
大村市・三城城跡は古来より聖地としての側面を持っている