長崎県は、地理的に朝鮮半島や中国大陸に近接していることから、古くより軍事上重要な拠点であった。明治時代には日清戦争や日露戦争などに際し、西日本の防衛および東アジアへの進出の拠点として機能した。明治22年に設置された佐世保鎮守府は、九州・四国・沖縄を含む西日本全域の防衛を担い、軍事戦略上欠かせない存在であった。
太平洋戦争期においても、長崎県は戦争遂行に不可欠な地域であった。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の命令「ニイタカヤマノボレ」が打電されたと伝わる針尾無線塔は、佐世保市針尾島に現存している。長崎市に所在する三菱長崎造船所では戦艦「武蔵」が建造され、戦争のための産業基盤が県内に築かれていた。
大村市には、第21海軍航空廠が置かれ、戦闘機の製作や修理が行われた。大村海軍航空隊は特別攻撃隊の出撃基地としても使用され、多くの若者たちがこの地を去っていった。また、長崎県は中国大陸や朝鮮半島に近接する海上交通の要衝であり、対馬・壱岐・五島などの離島や西彼半島には外洋向けの砲台が築かれ、戦争の現実を身近に感じさせる施設が点在していた。
終戦後、佐世保の浦頭港は引揚港として指定され、中国大陸や南方からの復員者・引揚者を受け入れた。昭和23年6月までに約139万人の旧軍人や一般邦人が浦頭港を経由して帰郷した。この港は、多くの家族にとって日本の地に再び立つ最初の一歩であり、戦争の悲しみとともに平和の尊さを実感する場所であった。
現在、長崎県内に残る戦争遺跡・遺構は、戦争の歴史を学ぶための貴重な教材である。針尾無線塔、旧海軍施設、砲台跡などの遺構は、当時の状況を後世に伝える証であり、戦争の悲惨さを知り、平和の大切さを考えるきっかけとなる。これらの歴史的資源を通して、未来の世代に戦争の悲劇を繰り返さない教訓を伝えることが求められている。
