令和8年7月3日、長崎県は日本脳炎注意報を発表した。県が実施したブタの抗体調査において、日本脳炎ウイルスへの最近の感染を示す抗体が確認されたことを受け、県内で日本脳炎ウイルスを媒介する蚊が活動している可能性が高まっていることが示された。
これから本格的な夏を迎え、屋外で過ごす機会が増える一方で、蚊の活動も一年の中で最も活発な時期となる。日本脳炎は患者数こそ多くないものの、発症すると重い後遺症や死亡につながることもある感染症であり、「今はほとんど見られない病気」と油断することはできない。
夏になると私たちの身近な存在となる蚊。しかし、その小さな昆虫が命に関わる感染症を媒介することは、決して忘れてはならない事実である。その代表的なものが日本脳炎である。
日本脳炎は、日本脳炎ウイルスを保有した蚊に刺されることで感染するウイルス性疾患である。人から人へ直接感染することはなく、主にブタなどの動物の体内でウイルスが増殖し、その血を吸った蚊が人を刺すことで感染が成立する。このため、長崎県をはじめ各自治体では、毎年ブタの抗体保有状況を調査し、地域におけるウイルスの活動状況を監視している。
現在では患者数が少ないことから、日本脳炎を「昔の病気」と考える人も少なくない。しかし、それは予防接種の普及や衛生環境の改善によって患者数が減少した結果であり、日本脳炎ウイルスそのものが国内から消滅したわけではない。西日本を中心に毎年ウイルスの活動が確認されており、長崎県でも注意報が発表されるなど、依然として感染リスクは存在している。
感染した人のほとんどは症状が現れない不顕性感染とされているが、ごく一部では脳炎を発症する。発症すると、高熱、激しい頭痛、嘔吐、けいれん、意識障害など重篤な症状を引き起こし、重症例では生命に関わることもある。厚生労働省によれば、発症した患者の死亡率は20~40%に達し、生存した場合でも45~70%に神経障害や知的障害、運動障害などの後遺症が残るとされている。このことから、日本脳炎は発症頻度こそ高くないものの、重症化した際の影響が極めて大きい感染症であることが分かる。
こうした重篤な感染症から身を守るうえで、最も有効な予防法とされているのが日本脳炎ワクチンである。現在使用されているワクチンは高い有効性と安全性が確認されており、発症リスクを大幅に低減できることが明らかになっている。感染そのものを完全に防ぐものではないが、重症化を防ぐうえで極めて重要な役割を果たしている。
日本では予防接種法に基づき、日本脳炎ワクチンは定期接種の対象となっている。標準的な接種スケジュールでは、3歳頃から第1期として2回接種し、その約1年後に追加接種を1回行う。その後、9歳頃に第2期として1回接種することで免疫を維持することが推奨されている。
また、平成17年度から平成21年度にかけて旧ワクチンとの関連が懸念されたことから、積極的勧奨が一時差し控えられた経緯がある。そのため、この期間に接種機会を逃した世代については、現在でも特例措置により公費で接種を受けられる場合がある。自分や家族の母子健康手帳などを確認し、接種歴が不明な場合には自治体や医療機関へ相談することが望ましい。
しかし、日本脳炎対策はワクチン接種だけで十分とは言えない。感染を媒介する蚊に刺されないよう日常生活で対策を講じることも同じくらい重要である。
屋外では長袖・長ズボンを着用し、肌の露出をできるだけ少なくすることが基本となる。虫よけ剤はディートまたはイカリジンを有効成分とした製品を使用し、説明書に従って適切に利用したい。特に蚊の活動が活発となる夕方から夜間にかけては、草むらや河川敷、水辺などへの立ち入りには十分注意する必要がある。
家庭では、網戸や蚊帳を利用して室内への蚊の侵入を防ぐことが重要である。また、植木鉢の受け皿、古タイヤ、バケツ、空き缶などにたまった水はボウフラの発生源となるため、定期的に水を捨てる習慣を身につけたい。庭木や雑草を適切に管理し、蚊が潜みやすい環境を減らすことも、地域全体の蚊の発生抑制につながる。
さらに、日本脳炎対策は個人だけの問題ではない。自治会や地域団体による清掃活動、水路管理、空き地の除草、側溝の点検などは、蚊の発生源を減らし、地域全体の感染リスクを低下させる重要な公衆衛生活動である。感染症対策は医療機関だけが担うものではなく、住民一人ひとりの日常的な行動によって支えられているのである。
近年は気候変動の影響により、蚊が活動できる期間や地域が変化する可能性も指摘されている。今後も感染リスクが長期間続くことが考えられるため、「夏だけ気を付ければよい」という考え方ではなく、気象状況や自治体からの注意喚起にも目を向けながら、継続的な感染予防を心掛けることが求められる。
特に乳幼児や高齢者は、重症化した際の影響が大きいことから、家族全体でワクチン接種状況を確認するとともに、外出時の防虫対策を徹底したい。万が一、蚊に刺された後に高熱や激しい頭痛、意識障害、けいれんなどの症状が現れた場合には、自己判断で様子を見ることなく、速やかに医療機関を受診することが重要である。
日本脳炎は、正しい知識と予防行動によって感染リスクを大きく減らすことができる感染症である。患者数が少ないからこそ危機感が薄れやすいが、その一方で、発症した場合の影響は極めて深刻である。
長崎県で日本脳炎注意報が発表された今、一人ひとりがワクチン接種歴を確認し、蚊に刺されない生活習慣を実践することが、自分自身だけでなく家族や地域社会を守ることにつながる。感染症対策は特別なことではなく、日々の小さな積み重ねである。その積み重ねが、安全で安心な地域社会を築く大きな力となるのである。
