発行:長崎通信社(長崎連盟内)
担当:長崎県公教庁
長崎県に住んでいても、「長崎の殿様は誰?」と聞かれると答えられる人は意外と少ないかもしれません。しかし、長崎の歴史を語るうえで欠かせない人物が、長崎甚左衛門純景です。
天文17年(1548年ごろ)、肥前国長崎の小さな漁村に、長崎甚左衛門純景は生まれました。
長崎氏は長崎小太郎重綱を初代とする名門で、純景はその14代目にあたります。重綱は鎌倉時代の御家人で、長崎浦の地頭職として領地を治めていたといいます。
当時の長崎はまだ小さな漁村に過ぎず、純景の生まれ育った土地は、海と山に囲まれた静かな町でした。
純景の祖父は有馬貴純の三男・康純で、純景自身は大村純忠の娘・とらを妻に迎え、大村氏に属していました。石高は970石、拠点となる鶴城(桜馬場城)を中心に城下町が広がり、館(現在の桜馬場中学校の位置)が置かれていました。
山城である鶴城は防衛には適していましたが、日常生活には不便であったため、平地に構えた館の周囲に人々が集まり、二日市という市場も立っていました。
海は館のすぐ下まで迫り、穏やかな港が漁村の暮らしを支えていました。
純景は義父・大村純忠とともに、長崎を海外貿易の拠点として発展させることに尽力しました。
1571年、長崎港を開き、ポルトガルやスペインの宣教師たちと協力して港町の整備に取り組みます。館のすぐ近くにあった古い寺院を1569年に改築し、長崎初の教会「トードス・オス・サントス教会」を建設しました。この教会は港に入る船からも見え、訪れる外国人にとって長崎の象徴的な存在となりました。(現在の春徳寺の場所です)
長崎港の開港は、町に活気と希望をもたらしました。
色とりどりの帆船が港に並び、商人や船乗りが行き交う中、純景は港町の秩序を守りつつ、貿易と文化の交流の橋渡し役を果たしていました。しかし、栄華も束の間。
1587年、豊臣秀吉による宣教師追放令が出され、長崎は翌年に天領として取り上げられました。
1605年には純景自身の領地も大村領に編入され、長崎で過ごした日々を後にせざるを得なくなります。
港町を繁栄に導いた手腕にもかかわらず、彼は愛着ある地を離れなければならなかったのです。
大村純忠の子・喜前は、純景に時津村の所領を与えようとしましたが、純景はこれを受けず、筑後へ逃れて田中吉政に仕えます。
田中家の断絶後、大村に戻り横瀬浦で100石の扶持を受け、のちに時津に移住。
甥で養子の長崎内匠のもとで余生を過ごし、1622年(元和7年)、波乱に満ちた70余年の生涯を閉じました。
純景は、長崎を海外貿易の重要な拠点に育て上げ、港町の繁栄に大きく貢献しました。
しかし、その功績もまた、時代の政権や宗教弾圧、領地争いの波に翻弄されることとなります。
彼の人生は、栄光と挫折、希望と喪失が交錯する物語であり、今日の長崎の港町の礎を築いた人物として語り継がれています。
長崎甚左衛門純景夫妻の位牌は長与町の法妙寺にあり、墓碑は時津町浜田郷に「長崎甚左衛門の墓」として残され、長崎県史跡に指定されています。
港町に生まれ、港町のために生きた殿様。その生涯は、長崎の歴史に静かに、しかし確かに刻まれています。
